那覇市内から国道58号を車で40〜50分くらい北上したところに、私達が見守っている海−「砂辺」があります。地図を見ながら「砂辺」に初めて訪れる方は不思議に思われるかもしれません。なぜならこの辺りは、地図上では「北谷町字宮城」、海岸部分は宮城海岸という地名になっているからです。しかしながら、沖縄在住の地元の方の多くはこのエリア一帯を、「砂辺」と呼んでいます。それはなぜでしょうか?
かつてこの辺り一帯は、砂辺という集落に隣接する広大なイノー(礁池)でした。砂辺の人々はこの海で漁労を営み、美しいサンゴ礁の海からの恵みを享受していました。海岸線は美しい松並木の砂浜が続き、周辺地域の住民が行楽に出かけてくるような風光明媚な海岸だったそうです。また、砂辺は「村芝居」を始めとする伝統芸能も盛んで、芝居が催される日には県内各地から多くの見物客で賑わうという、当時は文化面で中心的な役割を担っていたムラだったとされています。
しかしながら、沖縄戦を経てこの地域の様子は一変しました。全域が戦火に焼かれ焼失してしまったことや、すぐ北に嘉手納基地が建設されたこともあり、戦後の復興は加速度的に進められました。多くの砂辺の住民はかつて集落があった場所でムラの再建を果たしました。しかし、砂辺の人々が親しんできた広大なイノーは昭和40年頃までに埋め立てられ、自然景観やかつての生活様式は大きく様変わりしていきました。
埋め立てによって創出された土地では、住宅地としての整備が進み、学校や公園も含む市街地が形成されました。そして広大なイノーの埋め立てに伴って整備されたのが宮城海岸であり、ここが沖縄本島でも指折りのダイビングエリアとなっています。それは皮肉にも埋立てという開発行為が、私達ダイバーを魅了するサンゴが群生するリーフエッジとの距離を縮めてくれた結果とも言うことができるでしょう。
今、この海岸には多くのダイバーやサーファーが集まり、海という大きな自然と向き合っています。埋立てにより改変されたとはいえ、古くから呼ばれてきた名称が受け継がれていくことは、砂辺の海を愛するダイバーやサーファー、そして地元に暮らす人たちが、かつて存在した本来のサンゴ礁の海を想い起こすのに、大切な役割を担っていると考えます。
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写真提供 北谷町
ソフトコーラル |
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